「あのころの僕」に演劇を届ける、放浪の旅/マームとジプシー主宰・演劇作家・藤田貴大【前編】

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「演劇が好きならあれは観た?」「一度観たほうがいいよ」と何人もの友人に薦められた劇団がある。劇団の名は「マームとジプシー」。どんな劇団なのかと友人に尋ねるも、なんだか要領を得ない。調べてみると、劇団と言いつつも所属するのはその主宰だけで、ミュージシャンや小説家などさまざまな分野と交わりながら作品をつくり続けているという。なるほど、それは説明しようがない。

今回、主宰で劇作家・演出家の藤田貴大氏にお話を伺うこととなった。独創的な作品づくりのルーツ、演劇への深いおもい、ある意味命を賭して求め続ける「瞬間」の話。後編では5月からスタートする新作公演「CITY」について。

クールな眼差しとは裏腹に、内に秘めた彼の熱を感じる1時間だった。

明けても暮れても演劇の日々、そして憧れの東京で感じた温度差

――演劇との最初の接点は地元の市民劇団と伺いました。入団のきっかけからお聞かせいただけますか?

母親が大学時代に、劇場に積極的に足を運んでいたタイプだったようです。そんな母親のもとで育ちました。
僕の地元は北海道の伊達市という人口3万人の町なんですが、僕が小学3年生のときに大きな劇場が建てられることになって、同時に市民劇団もできました。それで、その劇団に小学4年生の冬に入団しました。そこで、18歳までずっと僕より年上の先輩たちと演劇をやってたんです。

――高校を出られるまでずっと?

中学校は演劇部がなかったからずっとその劇団で活動していて、高校は演劇部にも入りました。高校演劇の全国大会に出るような部活で。顧問の先生が市民劇団の演出家でもあったんですよ。中学までは劇団が放課後の習い事みたいな感覚だったんですけど、高校は演劇以外の記憶がないぐらい朝から晩まで演劇一色でしたね。朝練もあったし、昼休みも演劇だったし、放課後は部活を2〜3時間やってから、そのまま先生のワゴン車に自分のチャリを積んでもらって、劇場に行って市民劇団の稽古をする、っていう日々でした。それが18歳までずっとでした。

演出家であり顧問だったのは影山先生という方なんですが、ずっと10歳から先生の背中を見ていたんだとおもうんですよね。先生のことはずっと尊敬しています。北海道から全国大会に行くって結構予算がかかるし大変なんですよ。そんな演劇部をどうにか維持しなきゃいけないから、そういう苦労も身近で見てきました。そういう面でも今の自分が影響を受けている部分はあるんじゃないかな。
先生の演出をアシスタントするような立場も、高校1年から3年間やっていました。先生が言いたいことを他の部員に伝えたりしていたのですが、とにかく先生はものすごく厳しかったですね。でもなんか……楽しかったですね、僕は。


――楽しい側面もありつつ、課外活動や部活動という括りを超えた、人生の一部とも言える濃密さだったんですね。

地元の町には、映画館もないし、レンタルビデオ店といってもそんなに品揃えが良くないし、有名な小説家の最新刊すら売ってなかったりする。そんな中で、先生が毎月買ってくれる『演劇ぶっく』と『シアターガイド』を読んだり、先生がVHSに録画してくれる演劇のビデオを見たりして、「これが演劇なんだ」とおもっていました。だから、本当に先生がすべてだったんですよね。先生が見せてくれるものが僕の全世界だった。

そんな環境だったから、自然と劣等感が強くなっていったんですよね。僕は母親の田舎が群馬なので、年末年始は群馬で過ごしていたんですが、群馬で見た「ドラゴンボール」ではフリーザが第三形態までいっていたのに、北海道に帰ってきたらまた第一形態に戻っていて、「そんなことってある!?」って(笑)。本当に衝撃だったんです。『ジャンプ』の発売日も水曜だったし、こんな小さい島国なのにこんなにも差があるんだ、って。だって本州に住んでいる同い年の人たちは僕よりも未来の「なにか」を見ているわけです。当時はそういう一つ一つがすごくコンプレックスでしたね。

――だとすると、外の世界が怖いという気持ちもありつつ、東京に出ることには憧れもあったんじゃないですか?

それは劇団の先輩達が東京について色んなことを話してくれていたこともあって、めちゃくちゃ憧れましたよ。プレッシャーもありましたけど、18歳の自分は町のみんなが背中を押してくれたんだという気持ちで町を出ましたね。

しかし大学は辛かったですね。振り返ってみても。僕があの町を出るときに抱いてきたことと、大学にいる人たちの熱量の差を感じてしまいました。たしかにいろいろな演劇を観れた、だけど同時に9割以上が面白くない演劇で。最初は面白くないかどうかも分からなかったんです。僕が田舎者で理解できないだけで、本当は面白いんじゃないか、って。だけど、バカじゃないからだんだん気付く。するともう演劇って何なのかよく分からなくなっていって。聞いていい言葉と聞かなくていい言葉を身につけるような大学4年間だったなあ、と。でも大学ってそういうものですよね、きっと(笑)。

お店を営むように空間をつくる、それが僕の目指す演劇

――学生時代はひたすら「演劇」を目指して突き進んできたというお話でしたが、現在のマームとジプシーは「演劇」の世界から外へ外へ出ようとしているように見えます。

演劇というものにどれぐらい可能性があるか、上京してすぐは分からなかったんですよね。がむしゃらで、どうすれば食っていけるのかということばかり考えていたので。けれどもなんとなく自分のことが落ち着いてきたときに、「じゃあ自分の演劇はどうしたいのか」と考えたら、地方に住んでいた頃の自分の顔がおもい浮かんだんです。僕は、影山先生がいなかったらここにいなかった。

まだまだ自分の表現が届いていない場所はたくさんあるとおもっていて。すごくアナログな手法だけど、あの頃の自分に見せるように旅をしながら、演劇をかんがえていくことが自分の役割だとおもっています。

それは漠然と「マームとジプシー」っていう名前をつけたときからそうなんですよね。旅をしたり、いろいろな人に出会っていくという観点で言えば、東京以外の場所で仕事をするというのはひとつ大きな、自分のなかのメインとする仕事なんじゃないかな。

――「演劇」から外に出る、というのは物理的な意味もさることながら、他ジャンルの人とも一緒に作品をつくられていますね。

マームとジプシーのあり方は特殊だと言われるんですが、僕としては小さな頃から見て・体験してきた演劇観とあまり変わっていません。「この小道具を作るのは葬儀屋のタケちゃんだ」とか、あの町の中でもいろいろオファーやキャスティングがありました。そういうことをしないと成り立たないのが演劇だし、必ずしも演劇のプロフェッショナルだけが集まってやるものでもない、むしろちょっと違う人がいたほうが面白い、みたいな全体像を見ていた気がするんですよね、子役のときから。それの延長線上にあるというか。

演劇をやる人たちって、演劇のプロを探したり演劇におけるプロの技術スタッフを探すことで手一杯かもしれないけれど、普段演劇をやってなくてもいいとおもうんです。集まった人たちで何かを作る、結果それは演劇かもしれない、でもある角度で見ればそれは音楽やファッションかもしれない。それが僕が描いている「演劇」なんです。

演劇というのはジャンルというより人の集まり方であって、集まったその場所に物語がついたらそれは「演劇」だとおもうんですよ。ライブ表現としてそこを成立させていくことも僕にとっては重要です。

大学時代、屋久島を訪れたときに「ときどき滝が見える」という喫茶店を見つけて。その喫茶店からは本当に時々滝が見えるんですよ。屋久島は木が多いから、島の上に雲ができて、雲が落ちてくるかのようにスコールが降って、また木が水分を吸って蒸発して、というのを繰り返していて、雨の量が多いと時々滝が見える。何かのタイトルみたいじゃないですか、「ときどき滝が見える」って。そのお店が気になって何日か通っていました。パフォーマンスなんてない、誰か踊りだすわけでもないし、セリフが始まるわけでもないけれど、店主はどうやら夏の間だけここに来て「ときどき滝が見える」というお店を営んでいる。これは、空間をつくっているというレベルでは、演劇と何も変わらないんじゃないかなとおもったんですよ。

当時僕は演劇を辞めようかと悩んでいました。演劇を成立させることにばかり気を取られがちだけど、物語なんてもう何千年もつくられてきていて、語るだけなら演劇でなくても、映画でも小説でもいい。それより「なぜその空間に行きたくなるのか」を重点的に考えた演劇ならつくる意義もあるかな、とおもったんです。だから、お店を営むように自分はその場に人を呼べないか、と考えて始めたのがマームとジプシー。

マームとジプシーにいわゆる劇団員はいません。作品に出る人を固定しなくても、自分がどこでどういう時間を営みたいかというだけで、そこにいてほしい人を僕がキャスティングすればいい。作品単位で生まれる集団性も、その作品が終わると同時に解散する。

そういう形にして良かったなとおもうのは、つまりマームとジプシーにはゲストがいないんですよ。劇団だったら、客演というカテゴリーの人がいたり、ミュージシャンが入るといっても、そのミュージシャンはある集団性の中に飛び込んで来なきゃいけない。でもマームには集団性がないし、そのメンバーがその作品における集団なので、僕はすごく仕事がしやすいです。

――中と外というのがまずないんですね。

そうですね。言うならば僕しかいないから。それがマームの良さだとおもっています。

演出家って何のプロでもない人間なのだと僕はおもってます。音響システムを組み立てられるわけでもないし、照明を仕込めるわけでもない。ただ、全部の条件を見たときに、どういうバランスでその作品を今、世にライブ表現として立ち上げることができるかが演出家の仕事だとおもっています。演出家はだから、結局、人がいないと何もできないんですよ。それがこの仕事の醍醐味でもあるし難しいところだとおもうんですよね。

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『葬儀屋のタケちゃんの話』が印象に残っている。「市民劇団」というのは不思議な存在で、夜の稽古ではすべての団員が舞台に情熱を注ぐ一方、平日昼間にはすべての団員がそれぞれ別の顔で、違う世界に所属している。

なんだ、マームとジプシーそのものじゃないか。違う世界で生きている人たちが一瞬だけ集まって、マームとジプシーを作り上げている。マームとジプシーに団員がいないのは、藤田氏が孤独なのではない。みんないないけれど、みんな団員なのだ。藤田氏が描くものは「壮大な市民劇団」なのかもしれないと感じた。

後編では、そんなマームとジプシーの新作公演「CITY」について、また藤田氏が追求する「数年に一度の瞬間」についてお話を伺う。

 

後編へ続く

執筆:吉澤瑠美/撮影:橋本美花/編集:柿内奈緒美


藤田貴大
1985年生まれ。マームとジプシー主宰、劇作家、演出家。2007年にマームとジプシーを旗揚げ。象徴するシーンのリフレインを別の角度から見せる映画的手法が特徴。2011年に三連作『かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。』で第56回岸田國士戯曲賞を26歳で受賞。『cocoon』(今日マチ子原作)の再演(2015)で第23 回読売演劇大賞優秀演出家賞を受賞。2018年11月には「フェスティバル・ドートンヌ・ア・パリ(FAP)」公式企画として『書を捨てよ町へ出よう』(寺山修司作)をパリにて上演。今もっとも注目を集める若手演劇人のひとり。

『CITY』公演情報
■作・演出:藤田貴大
■出演:柳楽優弥 井之脇海 宮沢氷魚 青柳いづみ / 菊池明明 佐々木美奈 石井亮介 尾野島慎太朗 辻本達也 中島広隆 波佐谷聡 船津健太 山本直寛 / 内田健司(さいたま・ネクストシアター) 續木淳平(さいたま・ネクストシアター)

<埼玉公演>
■会場:彩の国さいたま芸術劇場 大ホール
■日程:2019年5月18日(土)〜26日(日)
■公式サイト:https://www.saf.or.jp/stages/detail/6361

<兵庫公演>
■会場:兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール
■日程:2019年5月29日(水)

<豊橋公演>
■会場:穂の国とよはし芸術劇場 PLAT主ホール
■日程:2019年6月1日(土)〜2日(日)

Rumi Yoshizawa
Rumi Yoshizawa
ライター
1984年生まれ、千葉県香取市出身の末っ子長女。 千葉大学を卒業後、株式会社ロフトワーク、株式会社イールーを経て2018年1月より独立。執筆編集を看板に掲げ、インタビュー記事と文字校正を中心に取り組んでいる。人の話を聞くこと、字を書くことが好き。あだ名は「おちけん」。